兵庫県立神戸高等学校同窓会

インタビューのコーナー

皆さん、こんにちは!
大好評のインタビューコーナー第26回は、株式会社レノバ 代表取締役社長 CEO 木南陽介さん(45回生)です!
「自然」と「人間」のせめぎあいを肌で感じて育ちました
-お忙しいところお時間をいただきまして、ありがとうございます!
 2月に日経新聞に掲載された木南さんの記事、読ませていただきました。
 御社は世界的にも注目が高まっている「再生可能エネルギー」専業会社ですね。

 
はい、レノバは再生可能エネルギー発電事業者として、太陽光発電、バイオマス発電、洋上風力・陸上風力発電、地熱発電などに取り組んでいます。
 
私が再生可能エネルギーに焦点をあてた事業を立ち上げるに至った経緯をお話しするならば、やはり生まれ育った「神戸」のお話からになります。
 
私は神戸高校のすぐそばに住んでいたものですから、山から神戸の街を眺めて育ちました。
神戸高校からそう遠くないところにはダムがいくつもあって、幼い頃はその工事工程を見たりもしていました。
家から南に下ると灘浜があり、海もまた、身近な存在でした。ポートアイランドや六甲アイランドのような人工島の造成のために、山が削られ海が埋め立てられていた時代でした。
当時の海は汚かったし、赤潮問題などもありました。
日本の発展過程において経済活動が環境に悪影響を与えてきた一面があることは事実ですが、それがないと成り立たない生活や、そのおかげで実現された生活もある。「自然」と「人間」のせめぎあいを子どもながらに肌で感じていました。

高校生の段階で「〇〇の専門家になりたいから〇〇学部に進まなければならない」というように、方向性が決められてしまうことには抵抗があり進路を決めかねていました。そんな時に新聞で京都大学に総合人間学部という学部が新設されるということを知り、環境問題を学際的に学べる学部だと書かれていたので、ここなら興味が合いそうだ、と。
京都大学総合人間学部ができたその年に1期生として入学しました。
京都大学総合人間学部第1期生として環境政策を学んだ大学時代
-総合人間学部。どういうことを研究されていたのでしょうか。

総合人間学部は、自分が課題認識を持てば、通常の学問領域を超えて、その問題を解決するために幅広い学問分野を繋げて解決策を探る...そういう研究ができるという触れ込みの学部でした。

理系か文系かと聞かれたら、ハイブリッドな学部というのでしょうか。
学部には文系の学生も理系の学生もいました。1組が文系、2組が文理、3組が理系、というようにクラス分けされていました。

私はそこで環境政策、具体的には、主専攻として環境経済学を、副専攻として物質環境学を学びました。
文系で入学しましたが、文系・理系両方からアプローチする分野で、
環境経済学では経済政策による解決策を、物質環境学ではCO2の研究をしていました。
大気の中に出てくるCO2を吸収する能力、たとえば海洋とか森林がありますけれど、私は主に海洋についての研究をしていました。



―大学の時にベンチャーで起業されましたね。

大学1年生の頃は環境問題についても「興味があることを研究してみたい」、「この問題の原因は何だろう」という関心の持ち方だったのですが、だんだん「なにか解決方法があるのではないか」「どういう解決策があるのか」「議論しているだけでなく、具体的に解決をしないといけないのではないか」という意識に変わっていきました。

分析して研究して論文にする。問題を特定して解決方法を見出してその入り口を提示する。これが「学問」であって、そこから先は行政の仕事...というような認識がありましたので、「省庁のような、ルールを整備するところで仕事をするのもいいな」と思った時期もありました。

しかし一方で、そういう仕事は、自由意思で動きたい自分、具体的な結果や成果を見てみたい自分には合わないのではないかと考えるようになりました。

その頃親しい友人がベンチャービジネスに深くのめりこんでいて、彼を通じて事業というものに深く接する機会を持ちました。これは自分たちでもてきるのではないか、と。
本屋に行ったら「会社の作り方」みたいな本も売っていて、なるほどこうやって登記したらいいのか、と。
当時はまだ最低資本金が有限会社300万円、株式会社1000万円というラインがありました。一緒にベンチャーを立ち上げようとしていた5人でお金を持ち寄り、なんとか有限会社を立ち上げ、ITビジネスを始めました。



―最初に起業されたのは、環境に関する事業ではなく、IT事業だったのですね!

1996年春にインターネットプロバイダーという業態が出始めて、皆がメールアカウントを持ち始めた頃でした。

事業が一定軌道に乗ってきたので、大学を辞めてもいいかなとすら考えたこともありましたが、原点に立ち返ったときに「なぜ自分はここ(京都大学総合人間学部)に来たのか」と。入学時には環境問題に大きな関心を持っていたにも関わらず、それを放置していたことに気づきました。環境に関するビジネスをやってみたいなと漠然と考え始めたのがこの頃です。

事業戦略だとか経営について頭を悩ませていたところ、一緒に事業をやっていた友人が東京のマッキンゼーというコンサルティング会社に先に就職していたので、インターンに来たらどうかと誘われました。
インターンを一週間体験してみると、自分の思考とは真逆で面白かったので、これは一度経験してみたい、という気になりました。そしていずれは環境ビジネスを立ち上げたいという気持ちを持ちながら、1998年にマッキンゼーに就職しました。

コンサルティング業は、簡単に言うと企業のお医者さんのような仕事、でしょうか。
戦略変更を考えている大手企業などからいろいろ状況を聞き、ときには痛みの原因を分析して「ではここは一部手術をして、ここにはこの薬を処方しましょう」みたいな提案をする、そういう仕事です。
大手企業にさまざまなご提案をする中で、一定の面白さは感じていました。
とはいえ、自分が事業者そのものではありませんでしたから、そこは決定的に違います。やっぱり当事者として、正面から社会課題に取り組む事業をやりたいなと考え始めました。

2年間マッキンゼーで勤めた後、25歳の時にレノバ(旧社名:リサイクルワン)を起業しました。
当時は環境やエネルギー分野での調査やコンサルティング事業を目的とする事業でした。
マッキンゼーの時に隣の席にいた同僚に「この分野で事業をやらないか」と声をかけ、2人で夜な夜ないろいろ研究をしました。休みの日にビジネスプランを書いたりして。

私には、大学の時にアルバイトとして働いたベンチャー企業と、友人たちと立ち上げた企業、それからマッキンゼーで2年間働いたこと、その経験しかありませんでしたから、今振り返るとこの時に会社を立ち上げた頃が本当の意味での実ビジネス経験のスタートでしたね。

 
エネルギー政策が大きく変わった2011年
レノバ 発電事業パンフレット各種
-創業時から、再生可能エネルギーに目をつけておられたのでしょうか。



「環境」という観点では、大きく言って「資源問題」と「エネルギー問題」の2つになりますので、その両方ともに関心を持っていました。その意味で、風力発電や太陽光発電にも取り組みたかったのですが、実は当時は市場のルール整備が日本ではまだ十分でなかったので、収益事業としては成り立ちづらい状態だと感じていました。

一方、2000年に循環型社会形成推進基本法が成立し、リサイクルに関するルールがたくさんできたこともあって、はじめはリサイクル事業を中心にやっていました。2010年頃までに日本のリサイクル事業は拡大してきていたところ、東日本大震災が起こりました。この震災を機に日本のエネルギー政策は大きく変わりました。再生可能エネルギーを推す流れになったのです。

関連するルールの整備が進み、私たちも2011年の秋頃に再生可能エネルギー事業に本格的に取り組み始めました。新しい制度では、まだ競争力のなかった再生可能エネルギーの電源を普及させるために、高い買取価格をつけてインセンティブを与えて市場化の促進が図られました。



―再生可能エネルギーについて、詳しく教えていただけますか。

今日は東京駅の目の前の本社にお越しいただいていますが、発電所や現場は、東京や関西などの都市部にはありません。全て自然豊かな地方です。
太陽光、風、地熱、森林など、自然資源の豊富な各地方の土地で、自然のエネルギーを効率よく電気にする。それが私たちの仕事です。

立地する場所は、地権者の方から直接お話しをいただくこともあれば、
地元の役場や地元金融機関、建設会社などいろいろなところからご相談を受けることもあります。

「わが街で再生可能エネルギー事業ができないか」と相談されたら、私たちはプロとして、自然資源を測定し、地形を確認し、事業の成立の可能性があるとなれば、エンジニアが発電所の設計を検討するのです。残念ながら障壁があってできない場合ももちろん多くあるのですが、日本中にまだまだ多くのチャンスがあります。技術的要素が大きい事業ではありますが、地域の自然や土地を有効活用できるのは素晴らしいことですし、地域の皆様と対話しながら培ってきた信頼関係はレノバの強みだと思っています。



―レノバの発電所で発電された電力はどのようにして使われるのでしょうか。

発電された電力は、電力会社の送電線を通して、地域や都市部で利用されます。もしかすると、皆さんの身近な工場や、学校、駅、自宅などの電気に一部使われているかもしれません。
最近ではグリーンな電力だけを使いたいというお客様も増えていて、そういう利用者の方には小売事業者を通じてご提供することが可能になってきています。

 
山も海も身近にある場所で育ったからこそ
―御社の取り組みの再生可能エネルギーのうち、特に力を入れておられるのは。

今は太陽光発電と木質バイオマス発電、風力発電が多いです。
ただ当社は、他に地熱も水力も開発しており、電源種別は実は幅広いのてす。それは各地の自然資源が違っているからでして、各地のニーズに応えられるようにしているのです。

新しい方法だからこそ、利点もありますか誤解を受けることもあります。
たとえばバイオマス発電で木を燃やすというと、「木を切るのは自然破壊なのではないか」と言われることもあります。
しかし、ご存知の通り、木は再生します。その際にCO2を吸収するわけですし、放っておくと逆に森は荒れていきます。 森林の健全な成長を促すためには、木を間伐していくことが必要なのですが、そういった間伐した木材などをチップにしたものを燃料として有効活用することが重要です。このチップの購入が林業者の収益源になるのもバイオマス発電の特徴の一つです。
電気を生むだけでなく、地域の活性化になる、といった面にもぜひ注目してほしいと願っています。



―神戸生まれ神戸育ちということが、ベンチャー起業、マッキンゼーでのコンサル業務を経て、今の仕事に結びついたということでしょうか。

もし私が自然のない環境で育っていたら、こういう環境問題に対して親和性や親密感は感じなかっただろうとは思います。
山も海も身近にある場所で育ったのは、やはり今の私のビジネスに影響しているのだろうなと感じますね。

神戸は都会ではあるので、それなりに教育環境は整っている一方で、単なる都会ではない。
身近な自然から感じ、学ぶことも多い場所だと思います。
自由さの加減が絶妙だった神戸高校
-起業の際、同じく神戸高校卒業生であるソニー創業者の井深大さんの本を読まれたそうですね。

神戸高校には「井深杯」というものがありますよね。
顕著な活動をした神高生に贈られる賞です。

実は私が井深さんも神戸高校OBだと知ったのはその井深杯がきっかけでした。
起業した後に改めて井深さんの本を読んで、感銘を受けました。
戦後の焼け野原でラジオの修理から始めてソニーを設立し、「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」を目指された、と。
こんな素晴らしい方が大先輩にいらっしゃることは、事業家として今でも私の誇りです。

自分の勝手な解釈では、この「自由闊達」は神戸高校の校風に多少なりつながるのではないかと思ったりしています。


―神戸高校時代のこともお聞かせいただけますか。

当時は1990年〜93年ですよね。
30年近く経ち、大分忘れかかっていますが、当時の神戸高校は自由さの加減がいいくらいの学校という印象でしたね。

私は神戸高校で野外活動部に入っていましたが、部活で持っているテントを持ち出し、「訓練」と称して、よく裏山に勝手に泊まったりしていました(笑)。
でも高校の先生はそれを知っても「注意したまえ」とだけ言って、怒らなかった。

また、これは私ではないのですが、ある部活だったか教室だったかで麻雀をしていた連中がいたところに先生が入ってきたことがあって、
怒られると思って身構えたら、
「お前、それはこれをこう切るんだ!」と言われ、拍子抜けしたという話もありましたね(笑)。

今はもうそういうおおらかな時代ではないのかもしれませんが、当時は個性的な先生方がそれなりの厚さでおられて、そのおおらかさが保たれていたように思います。

一方で、当時の淡路島の江井の合宿は「ちょっとやりすぎでは?」と思っていました。
自由に育ってきた私にとって江井のあの合宿は正直、軍隊的にしか思えませんでした(苦笑)。
おかしいな、学校の校風は「自重自治」ではないのか?などと感じた記憶があります。
その後は変わっていったんでしょうかね。強烈な思い出としては残っているのでいいのですが。

耐寒登山マラソンもいまだにやっていますか?(笑)
あれは謎ですよね、なぜ登山した後にマラソンするのか?という(笑)。とにかくハードな行事でした。


そういえば、私が神戸高校在学中の1990年に湾岸戦争が起こりました。
みんなで新聞を作ろうという授業かなにかがあって、みんな湾岸戦争について書いていました。イラクがクウェートに軍事侵攻し、それを米英率いる多国籍軍が取り返す、という話でした。ガソリン代もすごく上がって。

30年以上経って、今はロシアがウクライナに侵攻しています。ウクライナ侵攻のニュースを見ながら、高校時代にテレビで初めて見た戦争、湾岸戦争のニュースを思い出しています。


今の神戸高校生ってどんなかんじですか。校風は変わっていないのでしょうか。
30年以上経って、どんな風になっているのでしょうか。興味がありますね!

私から神戸高校生に一つ伝えるならば、「神戸は本当にいい街だよ!」ということです。
これは神戸を出てしまった人間だから特に思うことなんでしょうね。
高校生の時も近くの高台にある公園から神戸の夜景を見ながらよく友人と語り合ったものですが、今考えるととても贅沢な話です。

そうですね、二つ目を伝えるとしたら、「高校時代に友人といっぱい真剣に語り合っておいたほうがいいよ。とても貴重な時間だから」ということでしょうか。

当時、神戸は平和で若干刺激が少ないような気がしていましたが、
大学は京都に行き、その後社会人になってからは仕事の関係で長らく東京に住んでいますが、今考えれば神戸は本当にいい街だと思います。
自然もあり、人間同士の距離も近いし、気候もいい。
今ならあの良い環境に住みながら、世界中の人とコミュニケーションが取れるネットの環境もあるわけですから、最高だなと思いますね。

そんな神戸で育った神戸高校生から、世界を相手に活躍する人たちがたくさん生まれてくることを、とても期待しています。

-長い時間ありがとうございました!
 木南さんの今後益々のご活躍を、卒業生一同応援しています!


 
≪木南陽介氏 プロフィール≫

神戸高校卒業後、
京都大学総合人間学部に進学・卒業

1998年 マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパン入社
2000年 株式会社レノバ(旧社名:株式会社リサイクルワン)創業。代表取締役社長に就任

株式会社レノバ 公式ホームページ
https://www.renovainc.com/